外鎌山(とがまやま)
 大和朝倉駅の南東方、初瀬谷の入り口にそびえ立つ山である。桜井方面からながめる形が、富士山に似ていることから、大和富士・朝倉富士などの別称がある。一般に、大和富士といえば榛原の額井岳を指すが、それに比べると、外鎌山は標高も低く、形もややくずれている。
 この山は里の近くにありながら、頂上に登るよい道がない。わたしは北から登って南に下りたが、終始、カン木の密生になやまされた。頂上は大きい樹木がないので見晴らしはよく、苦労して登ったかいは充分あった。ここには南朝の忠臣、玉井西阿(さいあ)のとりでがあったという。
 この山の南、忍坂(おっさか)の地には、石仏で有名な石位寺があり、また、舒明天皇押坂内陵がある。その少し東に、鏡女王(かがみのおおきみ)の墓がある。万葉の女流歌人として、妹の額田王(ぬかたのおおきみ)とともに名高い。
 鏡女王はその才色を見そめられて天智天皇のきさきとなった。ところが、のちに天皇は弟の大海人皇子(のちの天武天皇)の愛人であった額田王に心を移されたので、鏡女王は藤原鎌足の妻となったという。鏡女王の歌に、

 風をだに 恋ふるはともし 風をだに 来むとし待たば何か嘆かむ(万葉集)

 宮廷にうごめく恋の葛藤を物語るかのように悲しみをたたえた歌である。女王の墓の奥の小高いところに大伴皇女の墓がある。ここから見る音羽山と多武峰の御破裂山は実に雄大な姿をしている。 
 舒明天皇御製
 夕されば小倉の山に鳴く鹿は こよひは鳴かずいねにけらしも (万葉集)
 朝倉駅の西方、近鉄線路に面する墓地に、天誅組前田繁馬、関為之進の墓がある。幕末文久三年(1863年)討幕の先鋒を自認して兵をあげた天誅組は、最後の鷲家口の決戦で壊滅し、戦死したり、ばらばらになって脱出した。宇陀を経てここまで出て来た前田、関の両名は、慈恩寺の居酒屋で藤堂藩の軍隊にうたれたのであった。  (「大和青垣の山々」奈良山岳会編 昭和49年大和タイムズ社)


二上山(ふたがみやま)に沈む夕日。もちろん外鎌山頂上から撮影

金剛・葛城・二上山・大和三山・松尾山・生駒山まで一望できる。

夜景。中央は二上山と耳成山。