「西阿」という人
1.はじめに
 桜井市には数多くの遺跡があり、古くは後期旧石器時代から近現代に至るまで様々な時代の人々の足跡を知ることができる。その中には南北朝時代に築かれた山城や平城があり、今なおその面影が残っている。この時代、桜井には「西阿」という大和武士がいた。彼は後醍醐天皇の南朝方に尽力し、朝廷のある吉野の地を守護するために桜井市内に六つの城を築いたことが文献に記されている。記述されているのはこれらの城が落城するまでのわずかな期間であるが、北朝方との攻防と西阿の奮闘が描かれている。
 そこで今回は卑弥呼や聖徳太子のような著名な人物ではなく、桜井で活躍した西阿という人について知ってもらう機会になればと思う。
 なお、「せいあ」「さいあ」と二つの呼称があるが、ここでは「さいあ」で進めることとする。

2.西阿のいた南北朝時代
一般的に南北朝時代とは、日本の時代区分の中の「鎌倉時代」と「室町時代」の間、1336(延元元、建武三)年から1392(元中九、明徳三)年までの57年間を指す。
 1318(文保二)年に践祚(せんそ)して親政を開始した大覚寺統の後醍醐天皇は1324(正中元)年に倒幕計画を企てたが、事前に露見し失敗する。この時は処分されることはなかったが、1331(元弘元)年に再び倒幕を計画し、またしても露見してしまう。身辺の危険を感じたため京都を脱出し、三種の神(じん)器(ぎ)を持って比叡山へ、そして笠置山へ入り挙兵した。幕府は後醍醐天皇を廃位し、持明院統の光厳天皇が践離する。
 1333(元弘三/正慶二)年、後醍醐天皇は全国の武士に討幕の論旨を発した。これに呼応した新田義貞や足利尊氏などの反幕勢力の結集により鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇は京へ戻り、光厳天皇と正慶年号を廃して建武の新政を開始する。1335(建武二)年7月に関東で中先代の乱が起こると後醍醐天皇は討伐に向かった足利尊氏を黙認するが、乱を平定した尊氏は鎌倉に留まり建武政権から離反する。宮方は京都に進撃してきた尊氏を撃破する。翌1336(延元元/建武三)年、九州落ちしていた尊氏は持明院統の光厳上皇から院宣を受けて再び東上する。宮方では新田義貞、楠木正成らを迎撃に派遣するが、5月尊氏は湊川の戦いにおいて新田ら宮方を撃破して入京する。後醍醐天皇は叡山に逃れて抵抗するが、8月には光明天皇が践離して北朝が成立した、11月に帰京した後醍醐天皇から三種の神器を接収した尊氏は京都に武家政権(のちの室町幕府)を成立させる。
 後醍醐天皇は京都を脱出して吉野へ逃れて朝廷を開き、光明天皇に渡した神器は偽物であると主張し、南北朝が成立する。以後、吉野の朝廷は南朝、京都の朝廷は北朝と呼ばれる。後醍醐天皇は、新田義貞に恒良親王・尊良親王を奉じさせて北陸へ、懐良親王を九州へ派遣し、北畠親房は常陸国へ赴いて、それぞれ諸国で南朝勢力の結集を図る。新田義貞、北畠顕家らはそれぞれ撃破されて戦死し、1339(延元四/暦応二)年には後醍醐天皇が崩御して後村上天皇が即位する。一方、尊氏は1338(延元三/暦応元)年に北朝から征夷大将軍に任じられる。後醍醐天皇の崩御後は北畠親房などが南朝を指揮するが、1348(正平三/貞和二)年には楠木正行らが四候畷の戦いにおいて足利方の高師直に敗北し、さらに吉野も奪われた南朝は賀名生へ移る。

3.西阿とは何者か
 『太平記』巻18には1336(延元元)年、後醍醐天皇の吉野遷幸の際、河内や紀伊の武士とともに馳せ参じた大和武士の内の-人に「三輪西阿」と記されている。また、北朝方の武家文書には「開住西阿」や「那良西阿」「大和国凶徒西阿」など様々に呼ばれ、三輪や開住、那良というのはおそらく地名であって、姓とは考え難い。おそらく三輪という地の西阿、開住という地の酉阿という意味と考えられる。また、「西阿法師」という記述もあることから西阿が法名であることがわかる。
 では西阿とはいかなる出自の人物なのであろうか。現在のところ、その系譜は高階氏もしくは高宮氏であるという二説が伝わっている。
 高階氏は天智天皇の皇子高市皇子を祖とする氏族で、初代高階忠峰以降、桜井市外山にある宗像神社の神主を代々務めている。系図によるとこの高階氏第二十代義琴には、三輪山の麓の外山村の玉井沼の近くに住む「勝房」という弟がいて、玉井入道西阿と号し1341(興国二)年7月3日に62才で陣没したと記してある(水木1915、玉井1932)。詳細は後述するが、この前日の7月2日には主城であった戒重城が落城しており、3 日には赤尾城や外鎌山城が落城していることからこの時に西阿は討ち死にしたものと考えられる。
 一方、『大和人物志』には「西阿は三輪の人なり(以下略)」と記されており、『大和志料』の式上 郡の記述の中に西阿に関する記述がある。それによると三輪町大字三輪字城山に大神社の神主を 代々務める高宮氏の拠城三輪城という城がある。後醍醐天皇の南遷の際に三輪城に入城した時の神 主が左近衛将監勝房という人であり、勤王の兵を起こして天皇の吉野遷幸に随った。その後、剃髪 して西阿と号し、太平記中の三輪西阿はこの人であると記されている。

4.西阿の築いた六城
・戒重城
 西阿が築いた城の内、最も西に位置した平城で開住城、開地井城などとも記される。また城の周りを竹薮に囲まれていたことから竹城とも呼ばれていたようである。

外鎌城(戸賀開城)
 西阿が築いた六城の中の最も東に位置し、外鎌山(標高292.4m)の頂上に築かれた山城で、奈良県道跡地図には外鎌山城として、山頂にある平坦面が記載されています。北朝方の 武家文書には「外鎌顛城」や「外鎌嶺城」とも記されており、この「巌」や「嶺」はどちらも山の頂を表す漢字であることから、外鎌山の頂の城という意味で記したと考えられます。
 1341(興国二/暦応四)年7月2日夜の戒重城落城の際、塀兵たちは東の外鎌城へと逃れました。武家文書の一つ『天野文書』には、
 「一同(七月)三日、凶徒等落留干戸賀間城之間、馳向彼東尾、遂合戦畢、…」
と記されており、西阿たちが外鎌城へ逃れる時に、天野氏の追撃を受けたことが窺えます。そのとき鶉城にいた兄高階義琴の救援によって外鎌城に入ることができたのではないでしょうか。また『蠧簡集残編(とかんしゅうざんペん)』に記載されている渡邊源四郎實の軍忠状には、落之時?
 「一七月三日、閑地井城安房城鵠城赤尾城外鎌城没□□□(落之時)致軍忠畢、」
と記されていることから、2日に夜襲を受けて戒重城が落城した翌日に外鎌城などすべての城が落とされたことがわかります。この後、西阿に関する記述がなくなることから、外鎌城の落城時に亡くなったものと考えられます。山頂にある石碑は、法華日蓮宗の門徒によって昭和45年に建てられたもので、西阿公の墓と刻まれています。
 日本城郭大系によると、主郭の長さ32m、その南北に帯郭、東と西南に張出しの小郭があり、虎口は西北に開いています。後の文書などには、落城後に再度使われたという記載が見られないため、当時の姿が残っている可能性が考えられます。(出典 桜井市埋蔵文化財センター )

 

 平成27年2月21日現在、石碑は10mほど東へ移動して平らに設置された。

白天龍王・西光龍王 龍王信仰で西の方角は白龍が守ることから西阿にこの称号を冠したものと思われる。